なめとこやまの熊のはなし
「・・・
ところがこの豪気な小十郎が、まちへ熊の皮と胆を売りに行くときのみじめさといったら、全く気の毒だった。
小十郎が山のように毛皮をしょって、そこの敷居を一足またぐと、店ではまた来たかよいうように薄ら笑っているのだった。
やりとりがあって、
「旦那さん、お願いだます。どうかなんぼでもいいはんで買ってくんない。」
主人はだまってしばらくけむりを吐いてから、今少しでにかにか笑うのをそっと隠して言ったもんだ。
「いいます。置いてお出れ。じゃ、平助、小十郎さんさ二円あげろじゃ。」
いくら物価の安いときだって、熊の毛皮二枚で二円はあんまり安いとだれでも思う。
実に安いし、あんまり安いことは小十郎でも知っている。
けれどもどうして小十郎は、そんな町の荒物屋なんかでなしにほかの人にどしどし売れないか。それはなぜかたいていの人にはわからない。
けれども、日本では狐けんというものがあって、狐は猟師に負け、猟師は旦那に負けると決まっている。ここでは熊は小十郎にやられ、小十郎は旦那にやられる。
旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。
けれどもこんないやなずるい奴らは、世界がだんだん進歩するとひとりでに消えてなくなっていく。
僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が、二度とつらも見たくないようなやつに、うまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。」
なめとこやまの熊のことならおもしろい。
という書き出しで始まるこのお話のなかの一部です。このお話を賢治が書いてから、百年近く過ぎましたが、まだまだ世界は進歩していないようです。
それどころか、旦那はどんどん大きくなってしまっているみたいです。
今の日本は賢治の思いからどんどん遠くなっているようにさえ見えます。
社会のシステムは、自分の力で考える力をこっそりと奪い、一部の人に都合のよい考え方、答えを、さも自分で導きだしたように答えるように誘導しているように見えます。
お話の中で、その姿をしっかりとらえることができるのに、現実となると見えてこない。
不思議なものです。
世の中の現実を見て、人としての理想をしっかり持つために、
僕たちは、自分自身から出発する想像力を持たなければならないと思うのです。
表現をする。一緒に想像をする。この想像は創造へとつながっていく。
演劇の仕事のひとつだと思っています。
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