稽古覚書「ゴーシュ」の気持ち1
ぱれっとの「セロ弾きのゴーシュ」のゴーシュは最後にしか台詞がありません。動物たちは声はしますが姿はだしません。そうすることで想像力を刺激して心のありようがわかるようになっています。これは不思議なくらいよく心がみえます。
この作品は公演でもしっかりと表現できていますが、さらに深く、しっかりと表現できるように稽古の積み重ねをしています。
昨日の稽古では、下手でいつもいじめられているゴーシュの心の動きを改めて確認する作業となりました。いじめられ、ひとりぼっちになったゴーシュは、人とのつながりをどのように考えるのか。
裕福ではない生活環境のゴーシュと他の楽団員との生活の違いはどうなのか。
いじめられても、楽団にかかわりつづけたいというゴーシュの思い、合奏したいという思いは、人から否定されても、人と関わりたい、自分の気持ちをどうにか伝えたい。
けれどもそれがうまくできない。
そういう心の動きを、目線、動作で表現する。
身体をどのように使うのかを考える上で、具体的に視界にはいるもの、存在はしていなくても想像で補える空間のイメージ(例えば仮定のドア、窓、譜面等)を使って心を動かしていく。抑えられなくなる感情が自然にあふれ出すようにしていく。
次に、カッコウとのかかわりです。
カッコウの言う音楽、ドレミは「カッコウ」だけです。
はじめは馬鹿にしているゴーシュが、弾いているうちに、音楽を感じる。
ひょっとしたらこれは音楽かもしれない。
そう感じる自分自身に驚くゴーシュ。
音楽が譜面の中だけにあると信じているゴーシュにとってありえないこと。
ベートーベンの第六交響曲「田園」はご存知のかたも多いですが、風景をスケッチしたような曲です。そう音楽は田園風景の中に自然の中にあり、そこから音楽をベートーベンは作り出したのです。ですから、カッコウから音楽を感じることは当然だし、その自然の中から湧き上がってくることを感じることがとても大切で、ゴーシュは自身の生活の中にしっかりと音楽を持っているにもかかわらず、全く気づいていなかった。
さて、ゴーシュは混乱します。なにしろこの時のゴーシュにとって音楽がたかが鳥のただの繰り返しにすぎない音の中にあるはずがない。
そう思いこんでいるゴーシュにとってこの感覚は自分がおかしくなっているように感じてしまうのです。
もうすぐ演奏会で、こんなくだらないことに朝まで時間を使い、しかも混乱させらてしまった。そんな思いのゴーシュはカッコウの言葉、
「どうしてやめたんですか。私たちならのどから血が出るまで練習するんです。」
「では朝日がでるまでどうぞ」
の言葉に糸が切れたようにカッコウを追いかけまわし、窓ガラスを割って追い出してしまいます。窓ガラスを割って朝の澄み切った空気が外から入ってくる。
きっと澄んだ空気と、外の土のにおい、朝のにおいと共に。
そこでまた心が動きます。
そしてセロを手に取ったとき。
ゴーシュはちょっぴり、音楽を感じる心を納得するのです。
そういう心の動きでゴーシュの行動を理解して、動きを確認しながら心が動いていくか、またその時どんな風な目線、動作になるのか、再確認しながら確認していきます。
また実際に演奏しているので、その演奏とカッコウとの声との絡みかたで観客にもただの音から音楽を感じてもらう。そうなる表現を探す。
昨日の稽古の覚書でした。
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