関さんとりんごの唄

昨日、藤田順弘さんのライブ公演が阿佐ヶ谷でありました。

順弘さんが赤木三郎さんの訳詞によるジャック・ブレルを歌いたいということから始まった企画のライブでした。

木曜日に8曲歌って具合が悪くなり二日間寝込んだそうですが、もし病院に行って入院することになんかなったらこの公演ができなくなるということで病院にも行かず、精のつくものを食べて気合いで挑んだ公演でした。

もう歌い終えたら倒れてもいい、それでもやりたい・・・・

今77歳、今年78歳になる順弘さんは気力で勝負していました。

全部で23曲。2時間のステージ。

途中10分休憩しますが、ピアノとふたり。

順弘さんは一人で話、一人で歌う。

僕は照明でサポートです。小さなお店で、もちろん店にあるものだけで変化をつけます。

残念なのはLED照明だということ。順弘さんの沁みるような歌の終わりのフェードアウトにはあまり似つかわしくない・・・・一部には持ち込みの色をつけましたが、フェードイン、フェードアウトは思ったようにいかず、僕としては残念。

舞台は順弘さんが倒れやしないか心配しながら照明をしていましたが、歌うほどに元気になっていくようでした。

無事に終わってほっとしました。

それにしても77歳で23曲歌い、トークも含め2時間。

歌えることがすごい。素直に関心です。

元気になった順弘さん、ピアニスト、それから受付等を担当した宇野さん、そして写真を撮影していた元舞台監督さんと打ち上げに。

打ち上げの後、舞台監督さんともう一軒飲みにいきました。

さてここから関さんの話です。この方は池小に脚本を書いたこともあるという方で、舞芸も含めよく知っていらっしゃる。ブドウの会などともかかわりのある方でした。

彼との話の中で、自由とはなにか?表現者とは何か?演劇者がやるべきこと、挑戦していくべきことは?といった話になりました。

そんな中で自然と関さんの話になったのです。

彼は佐藤信との対比で語ってくれました。

そしてベケットをどうとらえ考えていたのか関さんにとことん聞いてみたかったという話になりました。関さんはベケットの話ではうまくかわされていたような感じだったそうなのです。今となっては聞くこともかないません。

でも、今朝ふと、関さんがりんごの唄は、あれはきらいだった。そう言っていたのをなんとなく思い出したのです。あれは「暗い火花」という芝居の稽古をしているときのことです。

この芝居は1950年ころ書かれた木下順二の実験劇です。上演は過去に1回だけ。

この作品を関さんは取り上げたのです。それは池袋小劇場の最後の作品になりました。

その芝居に出演させていただいたのですが、その稽古の時にそんな話になりました。

芝居は1950年ころ町の小さな鋳物工場の話です。不景気で、倒産か大手に吸収合併されるのか。そのはざまで悩む若い2代目の心の葛藤。フラッシュバックのように過去の記憶がよみがえりながら現実の時間は流れていく。

この稽古の中で関さんは何度も松川事件の話をしました。

あの事件が日本の今の保守のながれをつくった重要な事件だったというような話だったと思います。それが「暗い火花」を考える上で重要で、過去の作品だけれども、今の日本を考える上でとても重要なのだと言っていたように記憶しています。

なんでこんな話を書いているのかというと、昨日話をしていて見えていなかったことが見えたような気がしたのです。それは関さんの感じていたことです。

関さんはりんごの唄を嫌いだといった。

関さんは徴兵検査は不合格でした。(検査の前に醤油を飲んだという話もありました。)どちらにしても池小のメンバーが言うには関さんが兵隊なんて上官が迷惑だろうなんて言っていましたが、結局、勤労動員されていたそうです。反戦の意思も堅かったらしく戦争が終わったときにはほっとしたらしい。そう言えば滝沢修さんは、戦争は必ず終わる。終わったらまた必ず芝居ができる。そう信じて、畑仕事をしながらばくてんの練習をしてたって聞いたことがあるなあ。

戦争が終わって復学して、芝居を再びはじめその中で社会と向き合ってきたのだろうと思うのだけれど、その目に写っていた日本の社会の変遷はどうだったのか。

それは常に恐れとの闘いだったのではないか。民主主義の国、自由の国になるそのための憲法も手にした日本。そして軍国日本。両方を良く知る関さんにとって階級社会であった戦前の影に常におびやかされていたのではないのだろうか。だから戦争が終わっただけでは不安はぬぐいさることができず、りんごの唄を素直に受け入れることができなかったのではないか。そんな気がしてきたのです。そして、平成になり、敗戦後をずっと生き続けてきて、少しづつ、少しづつ、変わっていく権力の在り方、市民の在り方に、戦前の影を感じおののいていたのではないか。そして影が最初に感じられ、その方向へ日本が動き出すきっかけをつくったのが松川事件があった時代だったのだと考えていた、感じていた、ということなのではないか。そう思えてきたのです。関さんは故人になられていて今をどう考えているのか聞くことはできません。でも「暗い火花」という芝居を最後に公演したのはそんな関さんの時代に対するメッセージだったのだなと思うのです。そして僕たちはそのことを踏まえたうえで乗り越えていかなければならない。表現者として僕らは時代と向かい合い決して後ろむきにならずに前を向いて、堂々と新しい世界を創り出していかなければならない。そう思うのです。舞台監督さんのおかげであらためて関さんの仕事について考えることができました。


劇団ぱれっと

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